道徳教育の教科化 道徳教育が始まって60年の節目となる2018年、道徳が小学校で教科(4月開始)になります。2019年度からは中学校でも教科化されます。
日本は「もうファシズムの玄関に来ている」!? 道徳の教科書からは「国体思想」の影!? 前文科省事務次官・前川喜平氏にインタビュー 2018.2.23
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/412984 ハイライト動画6分13秒 (以下、インタビューの「道徳教育の教科化」についての部分をセワヤキが要約)
行政官の本来の心構えは「教育行政は人間の、人間による、人間のための行政であるべき。教育行政は助け、励まし、支える行政。教育行政とは、現場から出発して現場に帰着する行政。」であるが、そういうあり方が1980年代に既に危険視されていた。反対に「教育は国家のためにある」という思想のほうが、当時の中曽根政権のもとでは支配的であった。中曽根政権以後「教育基本法改正」「道徳の教科化」を実現しようという流れができ、終に2006年、安倍政権のもとで教育基本法が改正されてしまった。
1947年の教育基本法は、現憲法の「個」を尊重する精神を土台としている。人類が勝ち取ってきた普遍の原理である「個」の基本的人権尊重という精神が、安倍政権の教育基本法改正により、「国」「郷土」[学校]「家族」などの集団重視に置き換えられ、この思想が強化されつつ現在に至っている。
この四月から使われる道徳の教科書は「国家主義的」な中身で非常に危ない。人間は「個人として存在し、個人として尊重される」のではなく「集団の中の一員」であり、「国」「郷土」[学校]「家族」などの集団に属するということを強調している(が、一方で、「世界」や「地球」は含まない)。そこでは「自己犠牲」「自己抑制」が美徳とされ、自由の価値などは教えない。「偉い人の言う事を聞きなさい。信じなさい。」という刷り込みがすごい。「決まりを守りなさい。」と主張はするが、「決まり、ルールは自分たちで考えて作るもの」ということは教えない。「主権者教育」「人権教育」「平和教育」などの大事な要素がゴッソリ抜け落ちているのだ。「個」はないがしろにされ、「集団の一員としての責任を果たせ!」を叩き込もうとしている。「個」と「国家」の逆転だ。
ドイツと日本の決定的な違いは、ファシズム(ナチズム)をどこまで清算して戦後を生きてきたかということにあると思う。日本の場合、ちゃんとした清算が行われないまま、戦前的イデオロギーが生き残ってしまった。しかも不幸なことに、そのイデオロギーを体現している人達(岸、中曽根、安倍…)が、権力を握ってきた。
とにかく、道徳の教科書の中身はでひどくて本当に心配だ。自分の子供や孫が使っている道徳の教科書を、皆さんに是非読んでほしい。例えば、《「おはようございます」が先かお辞儀するのが先か》というようなことにまで、型にはまった回答を求めるような内容が、道徳の教科書の中身なのだ。
「星野君の二塁打」という道徳の教材は、「自分の判断で動くな!」「すべて監督の言うとおりにしなくてはならない。」という権力を持った者に従順であることを求める内容。しかし、自分で物事を判断できなければ、これからの世の中で生きていけないではないか。こんな倫理観を刷り込まれてしまうと、「個」が弱くなるだけでなく「社会全体」が弱くなる。会社などもつぶれる。一人一人の判断が大事。子供達が批判精神を養えるように、教科書を逆利用するなど先生方には工夫してほしい。「迷いながら、何が正しいことか考える」ような子供を育てる道徳教育をしてほしい。子供達に「本当の自由の価値を伝える」ような、「好きに生きようぜ」的な教科書を、自分(前川氏)なら書きたい。「滅私奉公」を復活させるのではなく、自覚的市民を育てるべく、きちんとした「主権者教育」こそが不可欠だ。
(「星野君の二塁打」https://blog.goo.ne.jp/takahashikei0309/e/504eaeca501c5d54221459ec877aad50 )
高村光太郎が戦後に書いた「典型」という詩がある。これは、戦争賛美していた自分の責任を、花巻での隠遁生活中に苦しみながら凝視して、「自分は愚劣の典型であった」という結論に達して書いたものだ。三代に渡って鍛えられてきた、天皇に忠誠を誓う倫理観が自分の中に如何に深く根付いていたことか、それが如何に愚かなことだったか、ということに思い至り、そういう崩壊と再生を心の中で経験して書いた詩である。
高村とは違って、戦前のファシズムを清算しないまま、戦後日本の権力構造に入ってきてしまった者達が相当いる。安倍総理の祖父・岸信介は東条内閣のもとで商工大臣だったにもかかわらず、戦後に罪を問われることもなく総理大臣になっている。戦前のファシズムの清算などしないまま、その後3代生き残った人達が、むしろ権力を取ってしまっている。そして、その三代を通じて、いったん否定されたものがどんどん首をもたげてきて、ついにここまできてしまった。(要約終了)
参考資料
※高村光太郎が「暗愚小伝」を再録した詩集『典型』に付した「序」
「ここ(疎開地の岩手県花巻市)に来てから、私は専ら自己の感情の整理に努め、又自己そのものの正体の形成素因を窮明しようとして、もう一度自分の生涯の精神史を或る一面の致命点摘発によつて追及した。この特殊国(明治、大正、昭和と三代続いた天皇制国家、日本国を指す)の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにいられなかつた。そして今自分が或る転轍の一段階にたどりついてゐることに気づいて、この五年間のみのり少なかつた一連の詩作をまとめて置かうと思ふに至つた次第である。」
「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆つて詩を書かせるであらう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によつて私の頭上に永遠に下されるであらう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない」
※「暗愚小伝」の紹介 https://blogs.yahoo.co.jp/fifthjulyroad/15429894.html
※前川喜平さん語る「憲法」と「これからの教育」https://iwj.co.jp/wj/open/archives/412726
※「道徳の教科化② 懸念は何か」http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/253423.html