あの二個は「人体実験」だった!
★「広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点」 単行本– 2010/11/1木村朗、ピーター・カズニック 共著(以下、amazonカスタマービューより)
「(・・・)最近の歴史研究によれば、アメリカは原爆の実験が目的で、戦争終結を遅らせたのだという説が有力になってきた。アメリカは、大戦中に既にソ連との冷戦を予想し、1943年5月には日本への原爆投下を決定しており、その機会を逃さないために、プルトニウム型原爆の実験後までポツダム会議の開催を引き延ばした。戦争終結後の日本の占領政策についてのソ連の発言権を封じるためである。
さらに、アメリカが、ウラン型原爆の威力を広島で実証したにもかかわらず、長崎にプルトニウム型原爆を投下したのは、最初から2つのタイプの原爆を実験することが目的だった。
つまり、原爆投下は戦争の早期終結が目的ではなく、戦争の終結期に行なわれた前代未聞の人体実験だった可能性が高い。日本の敗戦直後のアメリカによる原爆被害の情報収集活動のやり方がこのことを実証している。アメリカは原爆投下の真の意図を隠蔽し、「原爆神話」を流布してその正当化を図ってきた。日本もその筋書きに積極的に乗って、アメリカの責任を追及することはなかった。
本書は「原爆神話」が虚構であることを日米の研究者がほぼ一致して証明したことに大いに意義がある。「原爆神話」の修正版は、アジア太平洋戦争後も、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争などアメリカによる非戦闘員の大量虐殺を正当化している。人類最大の不正義である広島・長崎への原爆投下を再考するため、本書は貴重である。」
★「原爆を投下するまで日本を降伏させるな―トルーマンとバーンズの陰謀」 鳥居 民 著
★「天皇はなぜポツダム宣言受諾を決意できたのか」有馬 哲夫 著
https://www.bookbang.jp/review/article/30410【自著語る】
「先の戦争を終わらせたのは、原爆投下とソ連の参戦だといわれている。原爆投下だけで充分だったとか、いやソ連の参戦の方が決定的だったと唱える研究者もいる。筆者はこのどれにも与しない。原爆投下とソ連の参戦は、必要条件ではあるが、十分条件ではなかったからだ。十分条件は、ポツダム宣言を受諾し、降伏しても国体護持ができるという確信を天皇と重臣たちが持てたことだ。事実、昭和二〇年八月一二日の皇族会議で、天皇が連合国に降伏することにすると告げたとき、朝香宮に『講和は賛成だが、国体護持ができなければ、戦争を継続するか』と問われたのに対し『勿論だ』と答えている。つまり、国体護持ができるという確信を天皇や重臣が持てなければ、戦争は続いていたということだ。」
★「生きている間に今の原発の火を全部止めて死ぬ。 これが今生きている日本人のみなさんの責任である」10/13肥田舜太郎医師(文字起こし)http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3333.html 2013.10.13(動画18分44秒)
「(…)落としたアメリカが、まだ人間が続々と死に始めているその時に、『放射線の粒を体内に取り入れたものは、入った放射線の量が非常に少ないから、全く人間には被害を与えない。』そういう発表をアメリカは戦勝国として負けた日本の国の政府にその考え方を押し付けました。
そして被爆者には、『みなさんが今受けているどんな被害も、これはすべてアメリカの軍事機密である。従って、自分の身体に今何が起こっているかという事を絶対に口外してはいけない。人に話してはいけない。親にも言ってはいけない。もし違反したものは厳罰に処す』
次に日本の医師に、『医師のみなさんは、おそらく広島長崎で被害を受けた被爆者に診療を求められることがあるだろう。医師は患者を診療することが仕事なのだから、それは自由にやってよろしい。ただしその結果を、記録をしたり、研究の材料として論文に書いたり、あるいは仲間内で相談をしたり、研究をする事は一切まかりならん。もしこれに違反した場合は厳罰に処す』
こういう二つの布告をアメリカは直後にもう行っているんです。
(…)そして今福島に残っている、いまさっきお話を受けた、大変沢山の方が今苦しんでいます。(…)お帰りになったら、今晩から、明日から、原発を無くす運動のために行動をする。考えたりしゃべったりするだけじゃなくて、なんらか有益な行動をする。身体を動かす。この事を今日、お約束をして帰っていただきたいと思います。」
★ABCC(原爆傷害調査委員会)は何をしたか https://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/26276180.html
証言6.女性∶.「私は広島の生き残りのひとりです。(…)これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期のこどもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録されたのでした。しかもそれは戦争が終わった後で行われた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、ABCC は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、『原爆投下によって対戦が終結し、米日の多くの生命が救われた』という大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。(橋爪 文『少女・14歳の原爆体験記』 高文研)
★「米国はなぜ2発の原爆を投下したのか」
広島・長崎の悲劇の教訓 http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/59625.pdf