「ナガサキ ――原爆投下が戦争を終結させたという神話」 著者 クラウス シェーラー(Klaus Scherer) 2015年 7月 27日出版
「核」の存在による紛争や事故、その結果必然的に生じる「放射能汚染」というものが、世界中に広まってしまった。この流れは止まることなく、汚染は刻一刻と地球(宇宙)に広がり続けている。その初めに位置するのが、ヒロシマ、ナガサキだ。日米両国では今も「原爆投下が戦争を終結させた」とされているが、実はそれは、日本、ソ連、米国の政治のかけひきが生んだ悲劇だったのだ。そのことを歴史家達が実証している。以下は著者の講演、インタビュー、映画の内容の要約です。
・・・・・・・・・・・・・「Nagasaki」・・・・・・・・・・・・・・
「天皇制護持」にこだわる日本政府は、その条件なしでは降伏しないという方針だった。それを計算に入れて、米国は、ポツダム宣言(7月26日)において、故意に天皇の扱いについての条項を事前に取り消させている。 その理由は原爆投下準備が完成するのを待つための時間稼ぎであった。(アラモゴードでのプルトニウム原爆実験が7月16日に成功。7月31日には原爆の最終組み立てが完了。)日本への原爆投下は、米国の核開発への莫大な投資を無駄にしないための絶好のチャンスでもあるとされた。 戦略的に重要。また人体実験もできる。米国の予想通り日本は、ポツダム宣言を無視した。 そして、まず、8月6日に広島にウラン爆弾投下。
広島が壊滅したにもかかわらず日本政府は依然として「天皇制護持」にこだわり続け、降伏の仲介をソ連に頼んだりしていた。すでに日本中で68都市が空爆を受けていたため、この「新型爆弾」が降伏の理由と感じられなかったのだろう。
二日後の8月8日にソ連が日本に宣戦布告。ヤルタ会議による密約もあったし、米国に戦勝を独り占めさせまいという戦略もあった。 一方米国は、ソ連が日本に宣戦布告したからには、日本の降伏も間近かというので焦った。当時すでに、プルトニウム爆弾は以後の核開発に重要な意味を持つとみなされていので、ソ連軍が日本本土に達する前にそれを試す必要があったのだ。せっかくの実験のチャンスを逃すまいという理由と、核開発への莫大な投資を無駄にしないためという理由で、8月9日、ついに長崎へプルトニウム爆弾(ヒロシマはウラニウム)が投下された。もし3種類の爆弾が開発されていれば3発目も実験用に投下されたことだろう。
戦後直後の米国におけるニュースの記録をたどると、そこでは、「原爆投下のずっと以前にすでに日本は力尽きていた」という報道がされていた。米軍高官らの「原爆投下は戦略的に不必要だったし、人道的に許されないものだ。」という証言も残っている。 だが一年後のニュースの記録を見ると、「日本軍は当時、軍備も十分あり、闘争心満々であった。降伏を考え始めさせるためには一発目が必要だったし、実際に降伏させるためには二発目が必要だった。」と事実に反する報道がされている。国民の支持を得るためには「すばらしい功績」で終結する必要があったのだ。
一方、日本でも原発投下が降伏の決定的要因であったかのように言われている。
実際にはソ連の参戦が日本に降伏を決断させたのだが。そこには、 「天皇制護持」を固守していたために起きた悲劇*から国民の目をそらさせる意図があったであろう。 またそれは米国の占領政策(天皇の戦争責任を不問にすることで国民を統治しやすくする)にも合致していた。(*1945年3月10日 東京大空襲:死者約8万~10万。負傷4万~11万名。焼失26万8千戸。 *1945年4月の米軍沖縄本島上陸から約3か月にわたる軍民混在の激しい地上戦:日本側死亡者18万8136人。 *1945年8月6日広島にウラン爆弾投下、9日長崎にプルトニウム爆弾投下:死者数は被爆後5年間に、広島で20万人、長崎で14万人と推定されている。)
日米両国とも為政者は「原爆投下」を責任回避のための口実に使ってきたのだ。
数少ない長崎の被爆生存者は、「私たちは、日米両国の犯したまちがった政治の犠牲者なのです。」と口々に証言している。著者は原爆投下を実行した元米兵と被曝生存者から直接に話が聞きたくて取材をした。日本では「天皇の政治責任」はタブーなので、日本で出版(又は上映)されるかどうかは疑問だ。(要約終わり)
日本は憲法9条で「戦争放棄」を誓う代わりに、天皇の戦争責任を追及しないことを被害者諸国に納得してもらいました。そのことを私たち日本国民はもう一度肝に銘じる必要があります。戦犯の亡霊達に過去の過ちを繰り返させないために。
日本への原爆投下が人体実験でもあったことは2011年10月6日のIWJの岩上安身氏によるインタビューで、広島の医師、肥田舜太郎氏が証言されておられます。
IWJの会員でない方でも、ここ➡http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-1064.html 「文字起こし№2」で読むことができます。(№5まである)
・・・・・・・・・・以下「文字起こし№2」より該当部分・・・・・・・・・・
…厚木の飛行場にマッカーサーが着いた日です。この日に彼は飛行機を降りて飛行場に降りた瞬間に、日本全国の各省の役人を全部呼んで、「自分が、本日ただ今から日本を占領して国民を支配する」「天皇も総理大臣も一切権限はない」という宣言をして、軍隊を解散するという事からはじまって、「日本の国民は何何をしてはならん」というのをずーっと並べたんです。で、彼は、あと後のことを考えて文章では言ってないんですね。口頭で述べて、日本の役所がそれぞれ、各自がみんな通訳と速記者を連れて行って全部速記して通訳がその場で訳して、それを役人が全部日本語に写し直して、自分の役所から全国の関係のところに流したんです。
・・・ 一つだけどうしても許せないと思ったのが、被ばく者に、つまり、「原爆の被害者、日本の医療機関、医師と学者に与える」という声明。これが、ものすごい腹が立った。それはね、「被害を受けた人間は自分の見た、経験した、聞いた、その被害の現状について、一切話してはならぬ」それから、「書いても、写真も絵もいけない」と。全く黙を通せと。これは親子だろうが夫婦だろうがしゃべっちゃいけないと。これをやった。
理由は、「お前たちの受けた被害は、それが痛みであれ、火傷であれ、病気であれ、怪我であれ全てはアメリカの軍の機密である」と。だから、「何一つしゃべってはいけない」とやった。それから、医療機関の学者に対しては、職務がら「患者がきて被害者が診てくれと頼まれたら、これは診てよろしい」と。「それは自由だ」と。「ただしその結果を複数の医師で研究したり、論文に書いて発表したり、あるいは学会に報告したり、あるいは学会で討議をしたり、これは一切いけない」と。本人を診る、命を診て、なにかする。それはいいと。あくまでも個人でやれと。医師が集団になって一切タッチしてはいけない。というのをやった。この二つが、これが原因なんですよ。日本中が黙っちゃった。うん。アメリカの、つまり「軍事機密だから触るな」って言うのが。 ・・・国連に行った時に、僕が行ったのは1975年ですけれど・・・「アメリカと日本政府が共同で、国連に対して『広島長崎原爆の医学的影響について』という報告を(1968年に)出している。その時にもう、『日本の国内には原爆の影響と思われる病人は一人もいないし、死没者は全部死んだ』というのを文書で出してる。だから、ドクター(肥田氏)が、ここでそういう事を言っても、国家として国連にそういう報告が出ている以上、私としては、ドクター個人の今の要望を受け入れる訳にはいかない」と(国連の事務総長に)断られたんです。
・・・マンハッタン計画の、トップから2番目っていう何とかっていうのが日本に来て、声明。・・・「今日、今、電話を受けて広島から報告を聞いたら、広島では死ぬべきものはみな死んで、現在病人は1人もいない」というのを、被爆した年の1カ月後に、もう言っているんですね。・・・
・・・それも兵士ではない民間人にも苦しみを与える。こういう内部被曝の問題。残存放射能による被害というものが、これが世に広く知られると、あまりに非人道的なので、抵抗が増える。アメリカ国内の支持が得られなくなる。反核運動が盛り上がってしまう。なので、これは何としても抑えたいということで、核兵器というのは瞬間的には大変な威力を発揮して、戦時には有効であって、「悪い敵」をやっつけるためには必要なんだと。そういう説得はするけれども、その後ずーっと多くの人々を苦しめるような非人道的な兵器ではないというプロバガンダを繰り返してきた。そういうプロバガンダのために日本の被ばく者は多数犠牲になり、日本/世界の放射線防護医学そのものを全部歪められてきたと。一つは「自分もまだ使ったことのない放射線兵器の効果をね、日本人を使って実験をする」と。・・・幸いに黄色人種で、自分たちが占領しても自由になるね、敗戦国だという条件からそういうのをやると、これはもう、落とす前から決めてた。もう一つは、あまりにも非人道的なそういう問題を知られる事がね、欧州の白人の中に必ず抵抗を生み出すと。自分の国内からもね、必ずしも自分の将来の核兵器政策が支持されるとは限らなくなる。その二つの理由で秘密を守ったというのが、大体共通の認識ですね。世界で。 (肥田氏はこのインタビュー当時94歳でした。一年後の沖縄での講演も必見/必聴!➡ http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2420.html )